米、大豆、麹、原材料から仕込む味噌づくり

原材料から仕込む味噌づくり

味噌づくりに使う大豆の選別

今年もオーンちゃんの味噌作りが始まった。

「今年も」といっても、味噌作りは今年で3回目だが、回数を重ねるごとに自家製レベルが確実に上がっている。
(→オーンちゃんの指摘で、今年は4回目だったことが判明したため、頭から抜けていた2回目を以下に追記)
 

●1回目
使う原材料(米麹、大豆)をすべて買って仕込んだ。

●2回目
自分で育てたわずかな大豆と、買ってきた有機栽培の大豆、それに買った米麹を使って仕込んだ。

●3回目
小川町の農業研修先で育てた米と大豆(つまり栽培に少しだけ自分も関わっている)を使い、麹菌と米で米麹を作るやり方を教わってそれで仕込んだ。

●4回目
うちで育てた有機栽培の米と大豆を使い、米麹を作るところから始めた。すごいぞ、オーンちゃん!

原材料から仕込む味噌づくり

蒸した米に麹菌をふりかけて混ぜる

 
自家製味噌の味を知ってしまうと、スーパーで売っている味噌は、同じ味噌の味とは思えなくなる。米に麹菌を生やし、その米麹の力で大豆を発酵分解するという原理原則のようなものは同じはずだけれど、原材料とかける時間などが違うと、できあがったものは別物になる。

 
 
自家製の味噌は、豆のしっかりした風味と甘みが味噌に出る。だから使う大豆が違うと、でき上がる味噌の味も変わる。まともな味噌屋で買えば別かもしれないが、スーパーの棚に並ぶ市販の味噌は、こだわっていそうな作りのものを買っても、豆の味がしない。

 
 
食べ物はやはり効率的に早く作ろうとすると、どうしても味が犠牲になることを改めて感じる。食べ物は命に直結する源なのに、ないがしろにされる傾向がある。どうやって作られたものか、原材料はなんなのか。食べて体内に入ったら、それらが自分の体づくりに関わるわけなので、食べ物の素性に思考を巡らせることは、自分の命、さらには家族や大切な人たちとの暮らしと向き合うことになるはずだけれど、現代の殺人的な忙しさがそうした思考の余裕を抹消させるのか‥‥。

 
 

自分もかつては都会のサラリーマンだったのでわからなくはない。1分1秒に追われる仕事をしていると、とにかく早く食べられるものを求める考えになってしまう。殺人的な労働の対価は微々たるものだから、早さと同時に安さにも手が出る。自分が食べているものは、見てくれだけは食べ物みたいだけれど実態は大量生産の工業製品みたいなもんだ。そんなことはわかっちゃいるけど、やめられない。そういう世界だった。

 
 

生きていくために働いているはずなのに、働くことが命を縮めることにつながっている。これは本質的な矛盾でしかなく、ふと立ち止まる時間がないと、この矛盾から抜け出すこともできない。ただし、こうした矛盾の上に成り立っているものもたくさんあることを決して忘れてはいけないから、なおさら辛さの連鎖に陥り、出口のあかりが遠のいていく。

 
 

話を味噌作りに戻す。

青山在来大豆の枝豆

実り始めた大豆

 
 
稲や大豆の種まきから始まる味噌作りは、命を削る労働と対比させると、命を吹き込む仕事と言えるのかもしれない。種をまき、土に触れさせることで稲や大豆の命が芽吹く。病気や怪我をしないように世話をしてやると、大豆や稲は実りをもたらしてくれる。その実りを麹菌(これも生きている)の力で味噌に変えてもらい、人間は植物と菌の命が作り上げたものを取り込んで、自分の命に変えていく。

稲の脱穀

稲の脱穀

 
 

当たり前だと捉えていたものは、失われたときにそのありがたみに気づくことがある。「手前味噌」だなんて言葉があるとおり、昔はどの家庭でも当たり前のように味噌を作っていたのだろうけれど、そうでなくなった時代からすると、味噌作りという失われた当然のなかには、きっとさまざまなありがたみが潜んでいる。

今年のオーンちゃんの味噌はどんな味になろうだろう。
 

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