豊かなのにウマいネギがなぜ食えない?
日曜日はよりい週末有機農業塾。今日は踏み込み温床の枠に使う竹を切り出しに行く。
併せて、使わせて頂いてる竹林とその地主さんに感謝すべく、枯れた竹を取り除く手入れをした。取り除いた枯竹は、竹炭焼きに使う。
手入れをすることで、邪魔者扱いされてきた枯竹が、田畑を肥やす炭に変わる。その炭で、畑で抜いたネギを丸ごと文字通り炭焼きして、みんなで食べた。それは、地域の竹林と人の食が繋がることを意味する。
「めっちゃウマい😋 銀座の高級料亭とかバカらしくなる味! この味を知らずに終わる人が多いんだろうな」
そんな塾生の言葉が印象的だった。ジワジワ炭焼きしただけで、これほどの満足感が味わえるのは、このネギが資本主義的な効率重視の大量生産品ではなく、焼き方も非効率だからだ。
資本主義のおかげで豊かになったとよく言われるが、果たして本当だろうか。その「豊かさ」とは、単に製造されるモノや生み出されるサービスの数量が増えただけではないだろうか?
もし、本当に豊かになったのだとしたら、なぜいつも食べているネギは、今日食べたネギのような、心を動かされる味がしないのだろうか。
もっと端的に言えば、豊かになったのに、なぜ不味いものを食べるハメになったのか。なぜ、とろりと甘いネギが身近な環境で誰でも手に入れることができなくなってしまったのか?
このネギの味を知ってしまうと、そんな素朴な疑問が頭をよぎる。その答えを出せる人は、まだ多くない。
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