荒れた元・水田を田んぼとして使えるように直すことを「復田」というらしい。
農繁期のため、畑の仕事もあれこれ滞るなか、男衾に有機稲作の里をつくるため、その復田作業を続けている。前にも書いたが、うちがやる4枚の田んぼのうち、沼(ため池)の土手と接している1枚がつわもので、作業が難航している。
そういえば、この田んぼの地上部の草を刈ったとき、茎が太く背丈の高い多年草がわんさか生えていたし、初めてここを案内されたとき、水を入れていないのに湿地帯のように水が溜まっていて、わずかな細い流れがあったのを思い出す。
蛍を復活させたいなどと、なっちゃんと盛り上がっていたので、あのときは水が常にそこにあることを喜んでいたけど、そういう地下水位の高い場所が荒れた結果が今回の作業の苦労につながっているわけだ。湿田だから使われていた当時、田んぼの乾きが悪くて稲刈りも苦労したのかもしれない。一方から見てよさげであっても、その裏を返してみるとまったく違った面が見えてくる。ものごとは表裏一体とはまさにこのことだ。
ぶつくさ言っていても何も変わらないので、葦の除根作業を続けると、数羽の燕が水のたまった足跡にちょこちょこ飛来するのに気づいた。餌を探しているようだった。その姿が、何日か前からモヤモヤしていたことをふつふつとまた湧き上がらせる。
この水位が高いところは、田んぼに戻すのではなく、葦が生い茂る葦原として生まれ変わらせたほうがいいんじゃないだろうか。
葦や復田について調べていたら、葦が生い茂る土地は水の豊かなところで、いろんな生き物が暮らせる場所だということを知ったのも、この想いを強くした。荒れ地を開墾して農地に戻す作業は、社会的に「いいね!」と言われる傾向があるが、それは人間にとってだけの話で、ほかの生き物たちの目にはせっかく回復してきた自分たちのすみかを壊される作業にうつるかもしれない。
人間が手入れをすること自体が悪いとは思っていないが、本来、そのやり方はもっと慎重に考えなければならないのではないか。重機を入れて大面積を一度に均一な状態にしてしまうのは、生き物の生息場所を破壊する行為にほかならないが、動物としての力を超えない範囲で、つまり、ひとつの生き物として人間が自然に働きかけ、関わっていくことは、土をより豊かなものにすることにつながると思っている。では、目の前の対象は果たして田んぼに戻すべきなのか、また自分に問うてみる。
葦が生えていたところを復田するということは、稲が生産的で葦を非生産的と見なしていることだとも言えるが、複雑なものごとを経済的価値でしか判断できていない視点である。そうした単調なものごとの見方が葦の産む豊穣の世界に価値を見出せなくなり、結果として、われわれは葦を活用するいにしえの技をほぼ失った。少なくともおれの中には完全にない。
人間を含むあらゆる生き物にとって本当に必要なものは、水と空気と地力である。経済的な価値がないと見なされた荒地の葦は、生き物の視点で見れば生命力あふれる水をたたえた揺籃の地であり、その誕生と死の繰り返しと蓄積によって、新しい命を育む地力が養われる。そうした見方に立ったとき、葦の生い茂る葦原は経済の目が見落としている価値を持つことに気づかされる。
一度は田んぼに戻そうと思い、地上部を刈り取ったり根を取り除いたりし始めてしまったが、ここをまた耕作放棄して葦原を復活させ、いろいろな生き物を呼び込んでみたくなった。小川町で研修を受けていたとき、水路側が常に湿っている田んぼがあり、そこが希少種となったニホンアカガエルの産卵場所になっている話を聞いたことがある。そんな風にこの場所も絶滅しかけている生き物たちの避難場所みたいになったら、また新しいにぎやかな風景が生まれることになる。
アンチテーゼという概念について改めて調べていたところ、まずある主張、前提、価値観(テーゼ)があり、それに対する反論、対立意見、逆の価値観(アンチテーゼ)が提起され、やがてその両者を超えて生まれる、新たな統合(ジンテーゼ)が誕生するという考え方があることを知る。
資材を投入して収量の向上ばかりを追求し、「有機」という命の論理を忘れた現代の有機農業に対するアンチテーゼ、それがこの葦原復活計画なわけなのだ。
この先、どんなジンテーゼが生まれるだろう?

