復田で考えた「効率の先にあるもの」

畑仕事、復田した田んぼでの田植えの下準備と同時並行的に、新しい田んぼ(通称塩沢7)の復田を進めている。先のブログ(以下)に書いたとおり、水路の復旧は終わったので、続いて崩壊した畔を直す。

スコップと万能鍬で土を掘り、畔があったであろう場所に土を盛り上げて踏み固める。「塩沢7」には葦の代わりに茅(チガヤ)がわんさか生えていて、地下茎をびっしり張って増えるこの人たちに、どうやって大人しくしててもらうかが、もう一つの大きな課題だ。

さて、畔直しである。茅を筆頭とする草の根がびっしり生えて水を含んだ土は、簡単に鍬の刃を通してくれない。直す畔の長さは80メートルくらい。土が水を含んでいるので、ついでに田んぼの水漏れを防ぐ黒塗りも兼ねてやる。

「ここ、田んぼにするん?」

通りがかる地元の人が声をかけてくる。ここもまた、20年以上、田んぼとして使われていなかったところだから、毎日、通りがかる人の目には、少しずつ地味に風景が変わっていくさまは興味を引くに違いない。(無関心な表情で通り過ぎる人も多いけどね…)

手間や苦労を裏返すと何が見えてくるか

この手作業による復田という仕事は、かつて、この地で稲作が始まった頃、新田を拓いた先人たちの苦労や、機械のない時代に田を手仕事で作り続けてきた汗を、脳ではなく体で感じるひとときでもある。なんでも自動化が進む今の時代に、こんなことを考える時間はなかなか見つからないから、それもまたいいものだ。苦労や手間を悪しきものとして駆逐していき、効率や利便を追求していく生き方が飽和しているような気がするが、苦労や手間とは見方を変えれば、夢中、やりがい、真剣、学び、習得、達成感、喜びでもあるから、その結果として生まれたものに対し、意味や価値を深く体で理解できるようになるのではないだろうか。

それに、効率を追い求める先にあるのは、人生の大量生産なんじゃね?とかも考えてしまう。

一つ一つ違うこととか多様性とかは非効率であるから、究極的な効率とは統率の取れた軍隊のように表情なくみな同じになることである。現実的に、世界はどんどん単調化していっている。同じような車に乗り、どこにでもあるアウトレットや大型店舗で買い物をし、流行りものの服を身にまとい、チェーン店で食事をし、プラモデルのように生産された建売住宅に住む。

細かい違いはいっぱいあるけれど、大枠でとらえると色彩の変化が乏しい人生、それが効率の先にあるものだから、「みんな違って、みんないい」とか「私らしい」とかが待っていてくれるわけではない。

それを田んぼに当てはめると、規模を拡大し、碁盤の目のように直角の畔が整然と並ぶ幾何学的な空気の田んぼになる。どこの農村にいっても、個性的な商店が並ぶ商店街ではなく、どこでもほとんど同じ店舗が入るイオンモールのように単調な田んぼの風景が広がる。自動化が進むから、そこで見えるのは自動運転のトラクターやドローンなどの機械類で、人の姿はほとんどない。ほとんど工場のような風景ともいえる。
今の農政が推進し、みなが賛同するスマート農業とは、そういう世界を産む農業である。人手不足なんだからしょうがないだろうという無思考な突っ込みは、このことを深く考えなければならないだろう。果たしてそれで、本当にいいのか、と。

とはいえ、じゃあお前は効率を完全に無視することができるのかと問われると、それはうなずけない。おれたちが生きている時代は、効率を前提にしているからだ。土台に効率が居座っている以上、その上の建物が効率を無視できるはずはないから、何とかうまく付き合っていかなければならない。だから悩ましいのである。

復田って、自分の人生や生き方を振り返る時間なのかな。

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