田んぼを作りながら考えるコミュニティ論

手作業で田んぼを作るというのは、本当に大変なことだとやってみて痛感している。機械作業と比べれば苦労が多いことくらいは最初から簡単に想像できた。でも、それはただ想像して分かったような気になっていただけで、どの作業のどこの部分がどのように苦労するのか、そのときの天気や野菜栽培との関連など、やってみなければ芯から理解できたことは何一つなかっただろう。

自分の田んぼについては手作業も交えながら耕運機を使っているが、なっちゃんがおもに作っている田んぼ教室の田んぼについては、刈払機以外、機械を使っていない。その田んぼ仕事を時間のあるときに共にする。大げさな表現かもしれないが、どう生きていくかについて感じたことや考えたことをいろいろ話ながら。それはある種の深い悩みであり、考えを共有できる喜びであり、他者の意見を聞いて思考を整理する時間であり、同じ時間を過ごす楽しさでもある。この時間があるからやっていられるのかもしれない。

と書いて、思った。

機械がなかった時代に田んぼを作っていた人たちも、同じような感覚があったのではないか。

食べていくためとはいえ、面倒で手間のかかり肉体的にもつらい作業を少しでも紛らわせるため、日々のことをあれこれ話したり、下ネタなども交えた田植え歌(田植え体験とは違って田植えは重労働である)にして歌ったりしていたのはまさにおれたちと同じだし、田起こし、苗代づくり、田植えなど大きな仕事の合間に囲んだ祝いの膳や営んだ祭りは、その時間を作業を共にした人たちと過ごす楽しみのひとときだったはずだ。

それが生きているという感覚につながり、真の意味のコミュニティを産んだのだのだろう。イベントやワークショップをやってできる現代的な薄氷のそれとは違い、生きることに直結し、ここで生きていくというある種の覚悟を伴った人間関係は強靭であり、些細な相違で割れることはなかったに違いない。

とはいえ、現場に立脚しない人たちが語りたがる美しい話ばかりではなく、妬みやもめごと、水争いが筆頭するような争いごともあったわけだが、コミュニティとは何なのかを考える上で、田んぼを機械に頼らず人と一緒に手で作るという作業に深い意味を感じ始めている。

生きていく上で必要な仕事を一緒にすることは共存である一方、他者の力がなければ成り立たないという意味ではある種の依存とも言える。この二つが複雑に絡み合った喜怒哀楽の関係がコミュニティの土台をなしたのか!?

そんな仮説を立てて、今日も田んぼに向かってみる。

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