田植えの時期になった。
去年、田植え機が不調になったことをきっかけに、手植えを始めた。手で全部植えるなんて、できないと思っていたが。やってみたらできた。新しい世界への入口なんて、いつもそんなもんである。何かを考え抜いた末とかじゃなくって、うまくいかない出来事がだいたい次の扉を開いてくれる。
田植え機を使ったほうが圧倒的に早い。うちの田植え期は歩行型だから、手植えと同じで田んぼの中を歩きながら操作するので、正直、さほど楽ではないが、それでも腰を曲げて植える必要がないので、手植えより体の負担はかなり少ない。
で、改めて考えてみた。手で植えるとは何だろうか。例えば、なぜ田植え体験イベントでは機械で植えないのだろうか。
自分なりに整理してみると、第一に身体性を回復するためではないかと思う。
知性や行動は脳だけから生まれるものではない。身体の動きを通じて環境や世界と相互作用することで、知覚や認知を行っている。この身体性を回復するのがひとつの大きな目的だ。
例えば自転車の乗り方について考えてみる。説明書やマニュアル本を読んで得た知識だけで自転車が乗れるようになるわけではない。この状態は頭で分かっているだけである。実際に乗ってみて、その自転車の大きさやペダルの重さ、ブレーキの感触、道の状態などに応じて、体が少しずつ自転車の操作を覚えていくことで乗れるようになる。これが身体性(体でわかる)ということだ。
ただ、現代は情報がすぐ手に入り、溢れていること、少しずつ変わって来た部分があるのせよ、まだ頭脳労働のほうが肉体労働より価値があると見なされていること、そこに生成AIの普及などが影響し、頭でしか分かっていないことばかり増え続ける有様である。体を実際に動かすことで、失われてしまったもうひとつの知性を取り戻す。そのために、手で田植えをするのだ。
第二は、人間とは何なのかという問いである。
世の中のあらゆる物事の自動化が止まらない。昔は歩いてどこにでも行った。誰もが学んだ江戸時代の参勤交代では、各藩から江戸まで歩いた。今住んでいる地域だって50年くらい前まで、日常の移動手段は徒歩だったと聞く。それが現代はどうだろうか。
エスカレーターやエレベーターがあり階段は登らない、自動ドアでドアすら開けない。移動は車や飛行機、鉄道。座って手や足を少し動かすだけの車や鉄道の運転すら、自動化が進んでいる。
人工知能(思考や知能の自動化)も各国が競うように開発を進めている。体を動かすことをどんどん捨て、それを進化や発展と捉えている人間は、考えることも放棄しようとしている。
作物栽培の世界ではすでにGPS搭載の自動運転トラクターが投入され始めた。そのうち収穫機や洗浄機なども自動化されるだろう。人間はもう何もしなくていい世界が近づいている。
すると、例えば「旅行」はこうなるかもしれない。寝たまま脳波が測定され、電気信号で視覚や聴覚の情報が三次元映像や音声となって脳に直接送られると、脳が「旅先」の景色や音などを感知し、旅をしていると認識する。もはや移動すらしなくなるわけだ。
実際、ヒト、モノ、サービスの移動の自動化は、トヨタが進めるWoven Cityなどで実験が始まっている。退屈な世界はもう目前に迫っている。
では、そうなると、人間とは何だろうか。生きているとはどのような状態なのだろうか、人間とロボットの違いはあるのかと頭を悩ませてしまう。近いうち、ただ情報を収集しまとめあげるだけの生成AIは、本当の知能を獲得し、ロボットと組み合わせられるだろう。そうなったとき、ますます人間とロボットの境界はあいまいになる。ゲノム編集やクローン技術のような生命をいじる技術が組み合わされば、最後の砦であった命の概念すら変わるかもしれない。
だから、手で植えるのである。
今年もすべての田んぼを手で植えた。楽ではないし腰も痛くなるが、生きている気がした。

