消えそうな山の道をよみがえらせる下草刈り

下草刈りが終わって道が戻った!

今日はなっちゃんと山の整備をする日。

谷津沼(ため池)の奥にある山の道に笹や篠竹がわんさか生え、その上に落ちてきた枯木の枝や倒木が重なって、通れなくなってしまっていたので、鎌で地道に刈り、枝や倒木をどかし、道を再生する作業をやった。2時間近く、二人で夢中になってやり続け、だいぶ道が回復した!😀

下草を刈る前はこんな感じ。奥が見通せない。

荒れた里山の手入れを始めた理由

手入れの現場は日本農業遺産に認定された谷津沼の周り

おれたちが蘇らせたいと考えている田んぼたちは、里山の谷間に作られた谷津沼(ため池)が水源になっている。山に降り注いだ雨が染み込み、長い時間をかけて谷筋からにじみ出るように湧き出たミネラルの豊かな水は、清らかな沢をなし、それを溜めることで稲作に使ってきた。

地元の人達によると、50~60年くらい前までは水が流れていたそうだが、今では残念ながら沢は枯れてしまい、その後が残るのみとなってしまった。

沢の水は沼を経由して水路を流れ、田んぼを潤し、川に出て、海へと続く。つまり、沢が枯れるということは、海が貧しくなることを意味する。枯れた沢はここだけではなく、全国各地にあるのだ。

有機稲作の里をつくるには、沼の水がいつも豊かでないと困るし、水を蓄えてくれる山が生きていなければならない。

田んぼや沼を見ていると、おれたちは山に生かされていることを痛感する。だが、その山は荒れ、活力を失った木は枯れて倒れ、もはや絶える寸前に見える。

昨日から、なっちゃん @natsuki_tanbo と毎週一回、山の手入れをすることにした。沢が枯れたことを知ってから、おれたちの目標に沢の復活が加わったためだ。沢を戻すには、山の手入れをし、その息吹を取り戻す必要がある。何年かかるか分からないが、地道に続けていけば必ず光が差し込むことはこの20年で感じている。

生きていくのに必須の水や水源に背を向けたまま、持続的ななんちゃらを謳うのは、完全に本質を見誤っていて、なんとも虚しいではないか。

田を作ると稲が育ち米が取れると説いてきた。だが、田を作るには、山が生きていなければならないことを、改めて突きつけられている。

庭の手入れと竹の活用

地形の関係で、自宅敷地の北側が湿気って、室内北側の湿気もすごいので、オシダ式大地の再生手法にならって改善に着手☝

ガシガシ点穴を掘って、そこから溝を切り、つなげていく。そこに切り出してきた大量の竹をガシガシ入れる。ガシガシ以外の語彙がない(汗)

溝の下の方に入れる竹にはドリルで通風孔を何箇所かあけてみた。これで空気の通りが良くなるはず。

続けて、雨樋の水が水路に排水されず、北側の敷地に垂れ流しになっていたので、竹を加工して排水管をつくり、集水桝に流れ込むようにした。

荒れた竹林の竹がこんなに活用できるなんて。しかも全てゴミにならない。土に還るだけ。山の手入れにもなる。

造園用の脚立を買いにホームセンターに行ったら、園芸資材コーナーのとこで竹が一本うん百円で売られていた🤔 しかも輸入モノ…。

すぐそばに荒れた竹林がわんさかあって、邪魔者扱いされてるのに、遠くから竹を輸入している。そんで、山が荒れて、熊だの猪だのが出たと騒ぎ、その対策に多額の税金が投入されている。

なんだろうね…。

よりい里山文化祭でお話会開催

昨日は里山文化祭のイベントの一つとして「男衾に有機稲作の里を作ろう!」のお話会を開催した。

前半は、2か所の現場を回りながらこの活動を始めた理由や概要をご案内し、後半は火を囲みながら、手作業で田んぼを蘇らせた二人の女性の話を聞くという半日だった。

今回の企画意図は大きく2つある。

ひとつは、里山文化祭というのだから、里山とはどのような場所か、文化とは何なのか、そういうことを一緒に考える時間を作ることだ。

そこで、里山、ため池、水路、田んぼ等が織りなす昔ながらの省エネルギー農業システムがどのようなものだったのか、人間がひとつの生き物として里山の生態系にどう関わってきたのかを現場でお話し、知ってもらうプチツアーを開催した。

もうひとつは、それらを自分なりに噛み砕き、前述の農業システムの枠組みの中で、自分たちが実践できることを最後までコツコツやり続けた二人の女性の話を聞いてもらうことだった。

里山、里山と叫び、近くでおしゃれなワークショップをやったり、里山保全の知識だけ溜め込んでも、里山の息吹が蘇ることはなく、荒れたままであり続けるだろう。里山が里山であるためには、人の手入れが欠かせないからだ。

里山やその周囲の環境を守るには、外から眺めているだけでなく、対象を知り、その中に入り込んで汗を かくことが大切になってくる。それを実践した二人の話は、最初から最後まで通して体験した人でなければ語り得ない内容になる。こういう話を聞ける機会は多くない。

霧雨が降る中、21人という予想を遥かに超える方々がご参加くださり、二人の話に耳を傾けていた。

話を聞き、興味を持って仲間に加わろうとする人たちも生まれた有意義な時間だった。

準備や告知等にご協力くださった皆さま、ありがとうございました。

イベント お話会のご案内

すでにお知らせしたとおり、寄居町で開催される里山文化祭の一環として、おれたち3人でやっている活動「男衾に有機稲作の里を作ろう」のお話会をやることになっている。

耕作放棄されて荒れた田んぼを、手作業で手入れし、田んぼとして蘇らせたふたりの女性によるこのお話し会は、なんちゃらワークショップと比べると、はっきり言ってモーレツに地味なイベントである。

企画した当時、その地味さゆえに、果たして申込みはあるのか正直、かなり心配だった。有機稲作の里を作ろうという文言は、キャッチーな響きではあるかもしれない。ただ、おれたちが発し続けてきた言葉には、何ひとつ派手さで引き寄せるものはない。

だが、それが静かに響いたのか、地元の人を含む20人(子どもを含む)もの方々にお申し込みいただいた。

儲かる話でもなければ、有名講師のありがたいレクチャーでもない。無名のおれたちが流している汗や考えていること、見ている夢に興味を持ってくれる人が、こんなにもいるのは、素直に嬉しい。

よりい週末有機農業塾の過去の塾生が3人も申し込んでくれたのも喜びにつながる。地味に続けてきたことが、小さな形をなし始めている。

手作業だけで田んぼを作るのは、現代人にとってもはや至難の技となり、技術もほとんど伝承されていない。

聞きたくても聞けない

やりたくてもやれない

見たくても見れない

そういう、失われていくことがどんどん増えている。

その意味を二人の女性と考えてみたい。

豊かなのにウマいネギがなぜ食えない?

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日は踏み込み温床の枠に使う竹を切り出しに行く。

併せて、使わせて頂いてる竹林とその地主さんに感謝すべく、枯れた竹を取り除く手入れをした。取り除いた枯竹は、竹炭焼きに使う。

手入れをすることで、邪魔者扱いされてきた枯竹が、田畑を肥やす炭に変わる。その炭で、畑で抜いたネギを丸ごと文字通り炭焼きして、みんなで食べた。それは、地域の竹林と人の食が繋がることを意味する。

「めっちゃウマい😋 銀座の高級料亭とかバカらしくなる味! この味を知らずに終わる人が多いんだろうな」

そんな塾生の言葉が印象的だった。ジワジワ炭焼きしただけで、これほどの満足感が味わえるのは、このネギが資本主義的な効率重視の大量生産品ではなく、焼き方も非効率だからだ。

資本主義のおかげで豊かになったとよく言われるが、果たして本当だろうか。その「豊かさ」とは、単に製造されるモノや生み出されるサービスの数量が増えただけではないだろうか?

もし、本当に豊かになったのだとしたら、なぜいつも食べているネギは、今日食べたネギのような、心を動かされる味がしないのだろうか。

もっと端的に言えば、豊かになったのに、なぜ不味いものを食べるハメになったのか。なぜ、とろりと甘いネギが身近な環境で誰でも手に入れることができなくなってしまったのか?

このネギの味を知ってしまうと、そんな素朴な疑問が頭をよぎる。その答えを出せる人は、まだ多くない。

餅つきと人生で大切なもの

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日は塾生の実家にお邪魔して、実家のご家族や遊びに来ていた親戚の方も交えて、餅つきをした。


餅と一緒に食べるあんこ、三種の芋餡、大根おろしなどは手作り。そこに買ってきた納豆や自家製野菜たっぷりの味噌味の汁も添え、搗きたての真に贅沢な味を皆で味わった。

燃料は裏山から切り出した竹を使う。
米は来年、自分たちで田んぼを作る計画がある。
野菜は失敗しつつも育てられるようになってきた。
大豆は今年、たくさん取れた。
育てた米と大豆で2月には味噌を仕込む。

「今日、自給できたものって何だろう?」

そんな言葉が自然と出てくる。みんな、今まで当たり前のように買っていたものばかりだ。

話す内容も、みな何かに向き合い続けたことで紡ぎ出されるものが多く(ま、おれがそういう話好きなせいもあるけど汗)、それが笑いを交えて冬空に響くさまが気持ちいい。

なかでも印象的だったのは、都市的に生きてきた20代の若者が、生きていくのに本当に必要なものは何なのか考え抜き、奥底に沈殿した澱を少しずつすくい上げるようにして、自らの生き方を回復させていった話だった。

そういう視点に立ち、考える人たちと今日という時間を過ごせたことが、何よりもありがたく、嬉しいことだった。

現金収入を増やすのを求め続ける人生だったら、この麗しい時間は生まれることはなかっただろう。

餅は買ってきたほうが安い
餅を搗く時間は非効率だ
レンチンで早く食べられる

それは本当だろうか?
安いとは何なのか、効率を求めるのは何故なのか、何でも早く済ませることに一体、どんな意味があるというのか。

限りある人生の時間を、誰と、どこで、どのように過ごすのか、その大切さを改めて教わっている気がする。

何でも買って賄うこととは何か

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日はもみ殻くん炭を焼き、踏み込み温床の解体をした。

もみ殻を低温で焼いて炭にする籾殻くん炭焼きは、焚き付けに針葉樹の枯れ葉や枝、支柱として使った竹(切り出してきたもの)などを使った。籾殻も含め、すべて身の回りで手に入るものを活用する。

焼くの手間だから、買ったほうが安いし、便利で楽だと言われることもある。

果たして本当にそうだろうか?
そういうことを改めて考えてみようとする時間がどんどん重要になってきている気がする。

自分で作らないで、あれもこれも買うって、どういうことを意味しているんだろう🤔 それが分かってくると、生きていく上でのしんどさが、1つ、すーっと消えていく。

でも、なかなかそういうことを考える余裕すらないのが、消費生活漬けの恐ろしさと消える。
一度気づいちゃうと、もう戻れないよなー。

PAGE TOP