へ理屈抜きのプチ環境論

日曜日はよりい週末有機農業塾。最近、投稿してなかったけど、ずっと地味に続けてるよ😀

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日は里山で落ち葉掃きをする事前準備の下草刈りをする。倒木や枯れ落ちた木の枝などをどかしながら、鎌で篠竹や笹を黙々と刈り、まとめては谷へ下ろす、という作業を続けること、およそ2時間半。

荒れて日当たりが悪くなり、林床が暗かったところに日差しが届き、明るい森になった🤩

林床が明るくなると、日差しを好むさまざまな植物が生えてきて、里山の植生が豊かになる。すると、餌が生まれるので、それに連れて昆虫や鳥類などの種類も増える。人間が手を加えることが自然破壊なのではなく、手入れをすることで蘇るという自然観がここにある。こうして、里山の環境は守られてきたのだ。

が、ここまでは、へ理屈である🤭

昔の人達は、こうしたことを、環境を守るためにやってきたのではなく、自分たちがそこで生きるためにやってきた。山を多様にするために下草を刈っていたのではなく、田畑の土に還して肥やしたり、家畜の餌にしたり、薪炭林の手入れをしやすいように下草を刈ってきたのだ。

それが結果として、里山の環境を守ることに繋がった。つまり、その生き方自体が環境保護になっていたと言える。

一方、学問も技術も発達した現代は、おれのようにへ理屈ばかりこねる頭でっかち君ばかりになり、環境保護のためにどうすればいいのか、みたいなヘンチクリンな話になってしまった。そんなことは、目の前のこととひたむきに向き合っていれば、考えなくても必然的に答えが出たのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう🤔

机の上だけで環境論や里山保護を唱えても、何も変わりはしない。もう一度、生き方それ自体が自然と調和するような方向を目指していきたいと改めて思った日曜日だった。

豊かなのにウマいネギがなぜ食えない?

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日は踏み込み温床の枠に使う竹を切り出しに行く。

併せて、使わせて頂いてる竹林とその地主さんに感謝すべく、枯れた竹を取り除く手入れをした。取り除いた枯竹は、竹炭焼きに使う。

手入れをすることで、邪魔者扱いされてきた枯竹が、田畑を肥やす炭に変わる。その炭で、畑で抜いたネギを丸ごと文字通り炭焼きして、みんなで食べた。それは、地域の竹林と人の食が繋がることを意味する。

「めっちゃウマい😋 銀座の高級料亭とかバカらしくなる味! この味を知らずに終わる人が多いんだろうな」

そんな塾生の言葉が印象的だった。ジワジワ炭焼きしただけで、これほどの満足感が味わえるのは、このネギが資本主義的な効率重視の大量生産品ではなく、焼き方も非効率だからだ。

資本主義のおかげで豊かになったとよく言われるが、果たして本当だろうか。その「豊かさ」とは、単に製造されるモノや生み出されるサービスの数量が増えただけではないだろうか?

もし、本当に豊かになったのだとしたら、なぜいつも食べているネギは、今日食べたネギのような、心を動かされる味がしないのだろうか。

もっと端的に言えば、豊かになったのに、なぜ不味いものを食べるハメになったのか。なぜ、とろりと甘いネギが身近な環境で誰でも手に入れることができなくなってしまったのか?

このネギの味を知ってしまうと、そんな素朴な疑問が頭をよぎる。その答えを出せる人は、まだ多くない。

餅つきと人生で大切なもの

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日は塾生の実家にお邪魔して、実家のご家族や遊びに来ていた親戚の方も交えて、餅つきをした。


餅と一緒に食べるあんこ、三種の芋餡、大根おろしなどは手作り。そこに買ってきた納豆や自家製野菜たっぷりの味噌味の汁も添え、搗きたての真に贅沢な味を皆で味わった。

燃料は裏山から切り出した竹を使う。
米は来年、自分たちで田んぼを作る計画がある。
野菜は失敗しつつも育てられるようになってきた。
大豆は今年、たくさん取れた。
育てた米と大豆で2月には味噌を仕込む。

「今日、自給できたものって何だろう?」

そんな言葉が自然と出てくる。みんな、今まで当たり前のように買っていたものばかりだ。

話す内容も、みな何かに向き合い続けたことで紡ぎ出されるものが多く(ま、おれがそういう話好きなせいもあるけど汗)、それが笑いを交えて冬空に響くさまが気持ちいい。

なかでも印象的だったのは、都市的に生きてきた20代の若者が、生きていくのに本当に必要なものは何なのか考え抜き、奥底に沈殿した澱を少しずつすくい上げるようにして、自らの生き方を回復させていった話だった。

そういう視点に立ち、考える人たちと今日という時間を過ごせたことが、何よりもありがたく、嬉しいことだった。

現金収入を増やすのを求め続ける人生だったら、この麗しい時間は生まれることはなかっただろう。

餅は買ってきたほうが安い
餅を搗く時間は非効率だ
レンチンで早く食べられる

それは本当だろうか?
安いとは何なのか、効率を求めるのは何故なのか、何でも早く済ませることに一体、どんな意味があるというのか。

限りある人生の時間を、誰と、どこで、どのように過ごすのか、その大切さを改めて教わっている気がする。

何でも買って賄うこととは何か

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日はもみ殻くん炭を焼き、踏み込み温床の解体をした。

もみ殻を低温で焼いて炭にする籾殻くん炭焼きは、焚き付けに針葉樹の枯れ葉や枝、支柱として使った竹(切り出してきたもの)などを使った。籾殻も含め、すべて身の回りで手に入るものを活用する。

焼くの手間だから、買ったほうが安いし、便利で楽だと言われることもある。

果たして本当にそうだろうか?
そういうことを改めて考えてみようとする時間がどんどん重要になってきている気がする。

自分で作らないで、あれもこれも買うって、どういうことを意味しているんだろう🤔 それが分かってくると、生きていく上でのしんどさが、1つ、すーっと消えていく。

でも、なかなかそういうことを考える余裕すらないのが、消費生活漬けの恐ろしさと消える。
一度気づいちゃうと、もう戻れないよなー。

よりいの小さなオーガニックマルシェ

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日は、よりいの小さなオーガニックマルシェに出店し、塾生の皆さんが育てた野菜を販売した。

塾生の皆さんが環境負荷を減らしビニールごみを出さないよう考え、里芋や人参などの根菜類に加えて、葉物野菜(ほうれん草)も量り売りにした。そして、包装は新聞紙。

口で言ってるだけじゃなくて、自分たちで考えて実践する場になってきているのが嬉しい。

寒空の中、お買い上げくださったみなさん、ありがとうございました。

学ぶことが農業に留まらない「農業塾」

よりい週末有機農業塾が農業塾という範疇を超える場になってきた。
ただ、これは狙ってそうなったわけではない。何しろ、きっかけは、自分が疲れたことだったのだ。

一年目は教えるということ自体が初めてだったこともあり、とにかく分かりやすいように細かく栽培の仕方を伝えることが重要だと思っていたし、余裕もなかったのでそれしかできなかった。

さらに、やっぱり有機農業じゃダメなんだなとか思われたくなかったので、通路とかの草管理も自分で徹底してやってしまった。

その結果、自分が話したり動いたりする時間の比率がかなり高くなり、毎回の農業塾が終わる度、ぐったり疲れてしまった。

おれは、何をやっているのだろうかと考え始めた。

細かく1から教えることも大切かもしれないが、それは自分で考える機会を奪ってしまうことにもつながるではないか。

そんなことをして、自分で畑を使う人を増やすことにつながるのか?

一体、何のために貴重な時間を費やして農業塾をやり始めたのだろうか。モヤモヤが始まった。

2年目から3年目にかけて、少しずつ改良を始めた。
まず、問いかけを始め、自分の言葉で表現してもらう時間を作った。
その問いは、どこに向かうのか考え始めたら、農とは何か、さらに、それはどう生きるのかという命題に向かうことと同じに思えてきた。

そこで、畑の内部で完結する問いだけでなく、そこから広がる生き方についての問いもぶつけてみた。

響くかどうか、もちろん不安はあった。

ただ、限りある人生の時間を費やし、わざわざ手間をかけ、自分が食べるものを生み出したいと考える人たちだから、今までの生き方を振り返り、何かを感じ始めたに違いないという思いはあった。

3年目から4年目にかけて、問いかけ続けてきたことの答えが輪郭を作り始めた。

「農業塾なのに、学んでいることは農業を超えている」
という声が聞こえてくるようになったのだ。伝えたいこと、考えて欲しいことが響いてきた証だった。

その響きの種をまいたのは、確かにおれだった。
ただ、そういう声が出てきたのは、塾生のみなさんが根本に立ち戻ろうとする姿勢を秘めていたからに他ならない。

種をまいても、土に力(地力)がなければ立派な実はならない。その地力は、週に一回、何か(農業塾)をしたから養われるものではなく、それぞれが今まで長い時間をかけて蓄積してきたが故に生まれたのだ。

今年度は特に、考え方の姿勢や関係性など、農業塾の初日には想像できなかったものも生まれ始めている。

きっかけは、ヘトヘトに疲れたことだった。
その結果、想定を超えたものが産み落とされ、こちらもいろいろ学ぶ機会になっている。

教えることは、教わること。

今日もやってきて良かったと、心から思える一時だった。みなさん、素晴らしい時間をありがとう

問い続けた結果、生まれたもの

日曜日はよりい週末有機農業塾。11月10日(日)、寄居町で開催される産業文化祭に、よりい週末有機農業塾として出店し、塾生が自ら育てた野菜を自分たちで売るという、初の試みにのぞむための準備をした。

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11月10日というピンポイントの日に販売できる状態に育てるには、どの野菜の何という品種の種を、いつ、どのように播き、どう管理するか。
種選びから全部、塾生に投げて、自分たちで調べて考えながらやってもらうという、結構、難しい課題を与えた。
それが見事、形になって、おれは今、ひとりで酒を飲みながら涙腺を緩めている。

例えば大根。

担当したXさんが選んできた品種に
「なぜ、その品種を選んだのか?」
と問い、種をまく時に畝を立てると言えば
「なぜ、畝を立てるのか」
と詰めより
「水はけを良くするため」
と返ってくれば
「この畑の水はけの良し悪しをどう判断したのか」
とさらなる問いを投げた。(ほんとはもっと優しい口調のつもり🤭)

プランター栽培しかしたことのないXさんは、問われる度、かなり頭を悩ませていた。何しろ、やったことがないのだ。そんなに突っ込まれても、というのが正直な心境だろう。

でも、おれは問い続けた。自分で考えられるようにならなければ、自分で畑を作ることはできない。できるようにならなければ、お互いにとって意味のない時間を消費したことになる。人生の時間は有限なのだ。

結果として、Xさんは自分で調べ、考え、それを言葉で表現し、また考えるということを繰り返し、自分の答えを野菜という形にしてくれた。
Xさんを例にしたが、他の人も同じだった。

後半になって、野菜をビニール袋に詰めて売るかどうかという話になった。ゴミが増えることにモヤモヤしているある塾生が、個包装せず、量り売りなどを考え始めたところ、お客さんに
「(包装されてないので)どうやって持って帰ればいいのか」
「ビニール袋はないのか」
とか言われたらどうしようか、と誰かが言い始めた。

「ビニール使うってことは、どういうことなのか考えてるんですか?」
って返せばいいんじゃない?と別の人が笑いながら言い出した。みんな笑っていた。事あるごとに問い続けるおれの真似をしているのだ。

売る気あんのかよーって感じですよねー、とおれも笑いながら返したが、そういう一つ一つの小さなことにきちんと思考を向ける人たちが増えたことに、結構大きな喜びを感じていた。

5月から始まって6ヶ月が経った。
ずいぶん、いい場になってきたな。

眼差しが変わると価値も変わる

よりい週末有機農業塾の参加者のみなさんが、Xさんの自宅裏にある竹林の竹を切り出し、支柱を作りに行くことになったという。

竹林は荒れて、手に負えなくなり、ご両親が困っているらしい。そこに、金銭中心主義から眼差しを変えたXさんが帰ってきて、仲間たちに切り出しと支柱づくりを提案した。その様子を別の参加者の方が投稿している。

何でもカネで価値を図ろうとする資本主義的価値観からすると、荒れた竹林は無価値だ。そればかりか、自分で間伐したり、それを活用したりする行為の価値は、買わせたい、売りたい側が主張する「買ったほうが安い」で否定されてしまう。

そこで、Xさんのように、荒れた竹林に対する眼差しを変えてみる。

投稿によると、その時間には学び、ふれあい、交流があり、仲間とともに心地よい汗をかく時間にもなった。

買ったほうが安いという考えは、これらの時間分、働いて得た時給換算額のほうが支柱の市場価格より高いから、金銭的には買ったほうが(短期的に)得だという計算に立脚する。

では、学んだり触れ合ったりした時間はいくらなのか?
仲間とともに過ごした心地よい時間は何円なのか?

そういうことに眼差しを向けられるような人たちと、これからも日曜日の午前を過ごしていきたい。

実体験からにじみ出ることば

日曜日はよりい週末有機農業塾。今日は田植えをした。晴れた日の下、泥のぬめりを感じながらの田植えは気持ちがいい。

終わった後、参加者の人たちの深い話を聞く機会に恵まれた。

「なんで自分で野菜を育てたいと思い、この農業塾に申し込んだのか」

そういう話だが、安全安心とか、環境意識が高いとか、ロハスやらオーガニックだとか、そういう馬耳東風的な話ではなく、みな、分野や世界は違えど、今までの生き方に深遠なモヤモヤを抱え、もがきながらそれを乗り越えようとしてきた、実体験からにじみ出る言葉に溢れていた。

野菜の育て方なんて、はっきり言ってどうでもいい。そんなものはネットに溢れているのだ、核心は自らの生き方と真剣に向き合い、どう変えていくか、そういうことを常々、綴ってきたおれは、みんなの話を食い入るように、ひとつひとつの言葉に耳を傾けていた。

どこかで聞いたような話とか、取って付けたようなネタとか、かっこよくて耳障りのいい物語は、ひとつもなかった。

Facebookとかインスタで吠えてるから、この農業塾に申し込む前にそういうのを読んでた人たちからは、

怖い人だと思った
私なんかが申し込んだら「農業なめてんじゃぇね」って怒られるかと思った

そんな声も聞いた(笑)。狙っていた訳ではないが、結果として吠え続けてきたのは正解だった。おれの遠吠えを聞いた上で申し込んでいた人たちは、向き合い方の眼差しが違う。

流行り廃りで申し込んできた人はいない。
そういう心を持った人たちなら、きっと野菜の根が大地を掴むように、きっとしっかり根を張るだろうと思っている。

帰り際、1人でぶつくさ考えていた。
この農業塾、いい場所になってきたな、と。

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