今年の夏は酷暑が激しく続き、雨もほとんど降らなかったため、水を好む空芯菜は畑で大きくなりもせず、かと言って枯れもせず、じっとその辛い環境に耐え続けてきた。
なんとか育ったものを一度だけ食べてみたが、茎葉がものすごく固く、筋はないので食べられたが、まったく別の野菜のようで、空芯菜特有のぬめりは一切ない。
残念だけどもう食べられないな…
空芯菜がない夏なんて悲しいな…
いつもなら、今日はどう料理して食べるか頭を悩ませるくらい、日常的にたくさん取れるのに、今年はあの味を1回も味わえずに終わるのか…。そんな気持ちに包まれながら、草と一緒に空芯菜を刈って片付けることにした。気候変動は自分たちがまいた種だ。それが芽を出して文句を言っている。おかしいよな。
しばらくして、一ヶ月ぶりくらいにやっとまとまっだ量の雨が降り、酷暑から30度前半くらいの気温に下がり始めると、刈り取った空芯菜が伸び始めてきた。少量だったが、葉茎を触るとやわらかそうだったので、自家製にんにくと干し唐辛子を加えて魚醬で炒め、食べてみた。
おーんちゃんも好きな、いつも通りの味付けのその一品は、喜びとありがたさに満ちた味だった。当たり前が当たり前でなくなるときに、人はその有り難さを感じると言うが、まさにそんな感じだったし、いつでも手に入るなんてただの盲信に過ぎないということも突きつけられた。
いつでも手に入るように感じてしまうのは、そのものが生み出されるために、毎日、誰かが、地味な仕事を、淡々黙々とやり続けてくれているからではないか。
お金を払えばそれが買えるのは、お金に力があるからというより、そういう人たちの仕事があるからなのだ。そうした仕事がなくなったら、いくら払おうが物自体がないのだから、手に入らない。金を払ったほうが偉いだなんて、思い上がりもいいところだろう。
雨についても考えさせられた。
雨が飲み水や食べ物を保障してくれているのに、雨の中、仕事するのやだなーとか思ってしまうおれは、なんと愚かな生き物なのだろう。雨はまさに恵みであり、支えでなのだ。旬の野菜はたくさん取れて栄養も豊富で安いとよく言われるが、それも雨が降るからだ。
「濡れちゃうからヤダ」
では、旬の味は存分に楽しめやしないどころか、命の危機にすらつながる。
雨が降ったら、飲み水と食べ物が守られていると考えよう。我が家ではありふれた夏の一皿を前にして、そんなことを考えた。

