不耕起栽培の自由度/大葉春菊を植える

大葉春菊を植えた。

去年あたりから、128のペーパーポットを使い、種を一か所当たり2~3粒まきして春菊の苗を育てている。気温の上がり下がりが激しいと温床育苗はなかなか温度調節が難しいが、春菊に関してはまずまずの苗に育った。

4年くらい前まで中葉春菊しか知らなかったが、野口種苗研究所のサイトを見ていて、ふくすけ春菊という大葉春菊の一種を見つけ、関東は中葉だが西日本は大葉春菊が一般的だと知り、未知の大葉春菊に興味を持った。それ以来、春菊は大葉春菊を育てている。葉が肉厚で香りがよくおいしいと、お客さんの評判も我が家の評判もいいし、今までの中葉よりやや晩抽性なので春まき栽培ではありがたい。

不耕起栽培に切り替えてから植える場所を整えるのに時間がかかるようになった反面、どこに植えるのかを選ぶときの自由度は上がり、場所選定も工夫が必要なためか楽しくなってきた部分がある。苦労はもちろんついて回るが、トラクターという機械作業にはない、手で作るという感覚を呼び戻せた気がする。その喜びは大きい。

真の自由とはなんだろう?

トラクターは、座ったままの姿勢で自動車のように足首と手首だけで操作でき、石油エネルギーで強力かつ均一な力を発揮する。しかも作業の速さは手仕事と比べると雲泥の差だ。

自由度と書いたが、トラクターで耕していた頃は、トラクターの幅が畑を管理する基準になっていた。それが今は人間が歩けるか、収穫や管理がしやすいかといった視点で決められるようになった。さらに、部分的で小さな面積の手入れがしやすくなったため、苗の数の都合などで一定時間、場所が空いてしまっても、あとから追加で何かを植えたり、緑肥を育てたり、草を生やしておいて育土したりといったこともしやすい。

目前の対象が当たり前の存在や事象だと錯覚してしまうと、その価値が理解できなかったり、軽く評価してしまったりしがちである。自由もまた、多くの人にとって「当たり前」に捉えられがちではないだろうか。きっと、真の自由とは何かを考えたことのある人は、そう多くないはずだ。

では、それは一体何なのか逡巡してみても、答えはすぐ出せるのうな性質のものではない。ただ、ひとつ言えるのは、何もせずに誰かから与えられるものではなく、自らの意志をもって獲得していくものということだ。

トラクターで耕していた頃も、自由に耕作していると錯覚していた。でも、実際のところはトラクターの大きさや幅によって仕事の自由度は制限されていた。
別の視点を添えてみる。トラクターを使った作業は手作業と比べるとすこぶる早いが、その早さによって生まれる余剰時間は、いくらかの自由を生むのだろうか。答えは、そうとは言い難い。なぜならその時間は、トラクターの購入費用を賄うための労働に投入されるからだ。

その意味において、トラクターの価格によっても、ある種の制限を受ける(自由がはく奪される)と言えるわけだ。さらに、手仕事にはそれ自体を楽しむ自由や創造性を包み込む側面がある(むしろこれは側面どころか正面な気がする)けれど、トラクター作業はそれを工場生産的で単調なものに変質させたとも表現できるのではないか。


春菊に話を戻そう。今回は去年のピーマンがまだ片付けられていなかった場所に植えた。枯れたピーマンをポキポキ折り、それを隣の玉ねぎとの間の通路に敷いて有機物マルチにする。ピーマンの株元には刈った草を敷いていたので、草はあまり生えていない。工場でエネルギーを費やして生産された資材(草抑えの被覆材)を使っていないから、ここにもまたひとつ、小さな自由が生まれているわけだ。

部分的に野生化したイタリアンライグラスや白クローバーが生えてきていたので、そのまま緑肥として生かすことにする。こういう自由度も気持ちがよく、真の自由に算入したい。

にんにくの端境期に活躍する葉にんにく

葉にんにく

今季、初めて育ててみた葉にんにくがうまい。

にんにくの端境期に大活躍するうれしい美味しさを手に入れた気がする。

栽培のきっかけ

栽培してみようと思ったきっかけは大したことではなく、どこかのサイトで見かけたか、誰かにちらっと聞いたか、その程度だった。それに小さい種が余ったことが重なって、やってみることにした。種は自家採種なので、小さい鱗片がたくさん出る。それを活用したかった。

栽培で考えたこと

①にんにく収穫用としては小さい種を活用

②株間 5センチくらい(途中から3センチほどに変更)

③葉にんにくとして収穫する専用の場所を作る

④にんにく収穫用は別の畝に植える

ちょこっと考察

2月に収穫が始まってから感じたのは、葉にんにく専用の場所を作るのではなく、密に植えて(株間3センチ程度)2月下旬から3月にかけ間引いたものを葉にんにくとして使い、大きく育ったものを残して6月頃、にんにくとして収穫するのがいいのではないかということだ。

小さい種を活用するアイディア自体は悪くない気がしたが、やはりあまり力がなく、大きく育たないから、さらに密植気味にしたほうがいいかもしれない。にんにくも同じ仲間(ユリ科)の玉ねぎや長ねぎと同様、互いに助け合う性質があるのか、大きめの種を株間5センチほどで植えた部分は、無肥料でも育ちがいい。

端境期に大活躍のうれしい味

そして、その味である。

年中、スーパーの棚に並ぶにんにくだが、専用の貯蔵設備がない場合、屋外で貯蔵することになるため、このあたりでは1月下旬頃から5月下旬かけては端境期になる。芽が出てきて、にんにくとしては売れないためだ。

うちでは

植え付けは10月上旬

収穫は5月下旬~6月上旬

収穫後は風通しがよく涼しいところで貯蔵

上手に貯蔵できても販売できるのは年内くらい(今年は2月上旬くらいまでいけておどろき!)

といった感じ。この、年明けから次の収穫が始まるまでの食卓からにんにくが消える期間に、葉にんにくが大活躍するのだ。

香りの強さ(にんにくらしい刺激)は、にんにくより少し穏やかなので、たくさん入れてもきつくないが、やわらかなにんにくの風味がとてもよく出る。

使い方は

①刻んで炒め物に使う

春はいろんな菜の花が採れるので、それと一緒に傷めると、この季節らしい一皿になる。

②麻婆豆腐に

同じく刻んで麻婆豆腐に使う。たっぷりがおすすめ。

③回鍋肉に

ネット情報だが(汗)、本場中国では、回鍋肉はキャベツではなく、葉にんにくを使うらしい。

④天ぷら

やったことないが(汗)、たぶん、かなりうまい

⑤和え物

取引先の居酒屋か~むさんで、うちの葉にんにくを使った和え物をいただいた。葉が軟らかで、炒め物ではないから油分はなく、ややさっぱりとにんにくの香りが味わえた。

ということで、これから葉にんにく栽培はうちの定番にしよう。

有機家庭田んぼ教室2日目 田起こし

有機家庭田んぼ教室の2日目。

今日からいよいよ田んぼでの作業が始まる。

まずはマンノウ鍬での田起こし。マンノウ鍬で土をほぐすように耕していく。すでになっちゃんが一回、田起こしをしたところはやわらかくてやりやすいが、まだ草を刈っただけのところは、20年近く土が起こされておらず、葦などの硬い草の根がびっしり生えていて、鍬が簡単に入らない。

マンノウ鍬での作業は初めてで、みな体が慣れずおぼつかない感じだったが、一人だけ、妙に様になっている人がいた。なんか、見ていて動きと姿勢がカッコいいのだ。
「鉞(まさかり)の使い方とよく似ているんですよ。」

鉞!? 聞くと、鉞で材をはつって物を作るのが趣味だという。おもしろい人がきたものだ。おれもちょうど、材をはつる道具を探していたところなので、しばし、はつる談義に花が咲いた。


田起こしは、腰が痛いなどと苦戦しながらも、食、農、環境、季節感、暮らし方、そういうのに興味のある人達が集まったからか、作業しながらの話が盛り上がっていた。

「こういう話ができる人たちと出会えて嬉しい!」

という声が印象的だったし、よくわかる気がした。

具体的、主体的に動くことで、近くにはいない、同じ興味関心を持つ人達が集うようになり、それに連れて周りの風景が少しずつ蘇ってくる。

場を作る意味を一人でもう一度咀嚼した時間だった。

里山の手入れに夢中な日々

時間を見出しては、里山の下草刈りを地道に続けている。畑や田んぼの仕事も楽しいが、今は頭と身体が里山の手入れに向かっている。種をまき、苗を植えるのに忙しい春になり、ただでさえ仕事が追いつかなくなりがちなのに、農業委員の仕事や有機農業塾の準備もあり、さらに田んぼ教室なんて始めちゃったものだから、あわただしいことこの上ない。そこに、電話での呼び出しも重なるから、さあ大変だ…。

体、いっこしかないんだけど汗

それにしても、里山の手入れは燃える。2メートル以上ある篠竹が木の間に結構びっしり生えているから、パワーのない充電式刈払機ではやや役不足な感じだが、刈ってはまとめ、刈ってはまとめてを繰り返していくと、どんどん見通しがよくなっていく。

篠竹がびっしりで、檜も間伐や枝打ちをしていないから林床が暗め。そのせいで植生は単調かと思ったが、中に入って刈っていくと、意外といろんな下草が生えていることに気が付く。名前を知らないので説明できないのが残念だ。

やはり、外から眺めただけで里山を語ってはいけない。見落としてしまうものが山ほどある。

限られた日の光を求めて生えてきた木や草をなるべく残しつつ、びっしり生えている篠竹を刈るのはなかなか難しい。

奥がどうなっているのか、木になって仕方がないので、篠竹をかき分けて山の上を目指すと、下草だけでなく木のほうも思っていたより種類が豊富で、山栗や山桜も何本か見かけた。ここまで手入れが進められれば、春(もう春だけど)には花見ができて、秋には栗が食えるじゃないか!

こういうのが、かなり強いモチベーションになっている。

「やる人」と「やってもらう人」の垣根

間伐材で作った丸太ベンチ

引き続き、男衾有機家庭田んぼ教室(埼玉県寄居町)の環境整備をやっている。

もう、教室はオリエンテーションが始まったが、まだ整備は途中という状態……。ふだんの仕事をし、頼まれ仕事もやりながら、新しい試み(田んぼ教室)を形にするのは、なかなか骨が折れる。儲かるかどうかだけが価値判断の基準だったら、こんなことはやっていられないが、物事の見方が変わったおかげで、儲からないことにも意味を見出せるようになった。
いや、儲からないことのほうが、意味深いものが圧倒的に多い気がする。


間伐して皮をむき、丸太ベンチをつくろうとしている檜が、皮をむいたところまででずっと止まっているので、なっちゃんの発案で見つけた休憩場所へ運ぶ。と、その前に、その休憩場所予定地には、田んぼ整備で大量に発生したごつい草置き場になっていたので、フォークでそれを一か所に積み上げて踏み込む作業をやる。

毎朝、ちょこちょこ刈っていた頃を少しばかり思い出す。

かなりの量だが、夏ごろにはたぶんそれなりに分解されて堆肥になるだろう。そしたら田んぼに戻せばいい。

土から生まれたものを土に還していれば、環境は荒れない。

環境を守ることは、よく考えると家計にも優しい。

「買ったほうが安い」というのは、売りたい人たちの宣伝文句に過ぎない。

さて、丸太である。まだ乾いていないから、結構重たいけど、それっぽく並べてみると、なかなかいい感じだ。
協力的な田んぼ教室の参加者の方が、休憩場所に使えるテントを持ってきてくれることになった。ありがたいことだ。「やる人」と「やってもらう人」の垣根が自然と崩れていけば、世の中の多くの問題は解決するんじゃないかなんて考えてしまう。

この教室は「田んぼ教室」という名前だが、田んぼの作り方(技術)なんてどうでもいいと思っている。そんなことより、田んぼを作ることで見えてくる世界を感じて欲しい。垣根が崩れれば、それが少し実現するはずだ。

有機家庭田んぼ教室オリエンテーション

男衾有機家庭田んぼ教室2026がはじまった。埼玉県寄居町の男衾地区にある、20年以上、使われていなかった元耕作放棄地、そこを開墾しなおし、新たな学びの場として蘇らせた。

今回は試行版ということで、公に募集はせず、知っている人たちに声をかけた結果、7人が集まった。

初日はオリエンテーション。主催者ふたり(おれと、なっちゃん)の挨拶兼自己紹介の後、参加者のみなさんにも自己紹介をお願いした。よりい週末有機農業塾のときもそうだが、この時間はどんな人が参加を希望してきたのかを知る重要なひとときになる。

いろんな背景を聞くことができたが、やはり今までの暮らしや生き方に何かしら疑問を持ったり、つまづいたりした経験が申し込みの動機になっている人が多い。それは仕事だったり、都市的な生き方の違和感や強いストレスだったり、体質や健康だったりとさまざまだが、その根っこには、経済成長を中心に添え、仕事ばかりか日常生活にまで効率という概念がしみ込み、それに異を唱えようとする感覚すら失われてしまった現代の暮らしに限界が生じ、あちこちでひびが入っていることを物語っているようにも感じられる。紡ぎ出されたひとつひとつの話は、ともすると個人の物語で完結するように受け止めてしまうかもしれないが、それは社会のひびからにじみ出てきた滴なのではないか。ぽたぽたと落ちる7つの滴が集い、小さな流れを生み出し、今までと違う世界を探し始めている、そんな印象を受ける。

世の中の生き物のなかで、人間だけ、なんでこんな生き方になってしまったのだろうか。ほかの生き物みたいに、食って、寝て、たまに交尾して、ただそれが続けばよかっただけなのにと常々、思う。

経済発展のおかげで豊かになり、その恩恵を受けているくせに何を言っているのかとよく突っ込まれるが、では、その「豊か」とはどのような状態なのか問うてみたい。

余談だが、以前、豊かさとは何か? などという仮説をああだこうだ書いてみた。何の参考にもならないだろうが、自分の頭を整理するために記したものだ。


豊かさって何だろう その仮説①
【続】豊かさとは何か 仮説①ー1


話を戻そう。教室全体の説明をしてから、有機稲作をつくる活動の概要や意味を伝えるため、現場を案内した。時間はかかるだろうけれど、少しずつ仲間が増えていくことを願う。

質疑応答のときに、始めて田んぼをつくるという人たちからいくつかちょっとした不安の声が漏れた。

ただ、どんなことでもそうだが、最初はみんなやったことがない。おれも、なっちゃんも、やったことがなかった。

誰もが失敗して少しずつできるようになっていく。
意欲をもってやり続ければ、赤ちゃんのようにいろんなものを習得できる。
へたくそでいいから、続けていって欲しい。

そうすれば、必ず道は拓ける。

どこかで聞いたような、取ってつけただけの言葉じゃなくて、自分の実体験からにじみ出る表現を獲得してほしい。

里山自伐型自給農林業、始めるよ

自伐型林業

自分で間伐した檜を材にし、鉈を使って踏み込み温床用の杭を作った。

毎年、温床を作るとき、藁や竹、落ち葉などは地域の資源を活用できていたのに、杭だけはずっと市販のものを買って使ってきたのがモヤモヤしていた。その小さくて大きなモヤがやっと晴れた。

まだ杭と薪を自給できるだけに過ぎないが、自分で木を伐採し、自分で使う、農と林を組み合わせた里山自伐型自給農林業、長えネーミングだけど、ま、平たくいえば昔ながらの農業だよね(笑)、それになんか大きな可能性と未来を感じ始めている。

里山保全って、やっぱ、まずは活用(具体的な行動)からだよね。

『自然生態修復工学入門』、『これならできる山づくり』、『里地里山文化論』、この三冊を読みながら、山で実践中。

【続】豊かさとは何か 仮説①-1

先ほど豊かさについて、仮説①を立てたが、頭の弱いおれに②は思い浮かばないから、①をもう少し掘り下げてみたい。

仮説①において。物心ともに満ち足りている、これで充分だと思える心境だと定義した。では物心のうちの物は、どんなものでもそれなりの量があって充分だと思えれば、豊かなのだろうか?

例えば、お金がたくさんあって、必要なものは何でも買えて揃ったとしても、それで心も満たされるのだろうか。この問題を考えるにあたり、心についても触れておきたい。

まず、人間は一人では生きられないという意味において、他者との関係性が重要になる。自分以外の誰かAと心が満たされる関係を築けるか、ということである。

その関係性の中で、例えばAが生み出した物が、自分の暮らしに少しでも取り入れられ、その比率が次第に高まっていくような生き方が、豊かさを感じさせるのではないだろうか。

これをイー説と呼びたい🤭

具体例をあげよう。

今日の昼、先に書いたとおり、大根のカレーを作って食べた。その大根はスーパーで買ってきたものではなく、他者Aが汗をかいて生み出したものである。食べ物なくして人は命を紡ぎ得ないから、大根(食べ物)を人に分け与えるということは、相手の命(その延長に人生がある)を想うことである。

お世話になっている方が、汗をかきながら、おれの命と人生を気にかけてくれる。なんとも心がけ満ちるひとときではないか。そして、具体的な大根という物ももたらされる。この状態をイー説(仮説だよ🤭)では、豊かであると定義するのである。

さて、みなさんにとっての豊かさって、なーんだ?

(なぞなぞ風)

豊かさって何だろう、その仮説①

お世話になっている方から頂いた大根、自分で育てた唐辛子、にんにく、生姜を材料に、間伐した竹、山で拾ってきた枝、杉の葉なんかを燃料にして、庭先で青空のもと、大根カレーを作りながら、豊かさって何だろうかと考えている。

その答えはまだ仮説でおぼろげだが、物心両面で満ち足りている、これで充分だと感じられる心境ではないかと考え始めている。だから、たとえお金がたくさんあっても、精神的な不満(不満とは満ちていないこと)があったり、もっと欲しい(つまり満たされていない)と思ったりしているのであれば、この仮説によると豊かではないことになる。

貧しさに耐えろとか、清貧の思想をゴリ押ししたいとか、そういうことではない。自分の現状をどう捉えるか、という話である。

そんなこと考えてたら、カレーができた🤩

モーレツにうまい😋

豊かさって、何だろう🤔

仮説①って見出しにしたけど、頭弱いから②は思い浮かばん🥹

お金を浪費しない米麴づくり

もはや恒例となった素材から自家製の米麹づくりが始まった。10年前、満員電車に揺られ、もやもやする余裕すらない会社員生活をしていた頃からすると、大げさに言えば隔世の感がある。

蒸米を作るため、拾ってきた枯竹を燃やして湯を沸かす。竹は勢いよく燃えることもあり、大量の湯が短い時間で沸く。これをガスでやったら、だいぶ時間がかかり、ガス代も悲惨なことになり、いったい、米麹を作ってるのか、エネルギーと金銭を浪費しているのか、わかんなくなりそうだ(泣)

枯れた竹を拾ってくれば、山がきれいになって、林床が明るくなり、また別の食べられるものが生えてくるかもしれない。

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