収穫体験は農を再興するか?!

石倉一本ねぎ
寄居町で新しく小さな挑戦をしようとしている人がうちの畑にやってきた。うまく表現できないが、自身の経験を生かして、ただ単においしいだけじゃない食の体験を提供する場を作りたい、そんなことを考えているようだった。

その事自体は賛成したい。

ただ、例えば収穫体験をして、農業の大切さや農家の苦労などを伝えたい、といったような話が出たので、少し考えてみた。

強く冷たい北風が吹き付けるなか、延々とゴボウをスコップで掘る(深さは1メートル以上)とか、どしゃ降りの雨の中、雨合羽を来て泥々の重い大根を何十本も抜き続けるとか、そういうのなら、農家の苦労は伝わるかもしれない。(これが現実なのだ)

でも、怪我などされないよう事前に美しく整えられた環境で、多少なりとも盛り上げる演出付きのなか、出来上がったものを取るハイライト体験は、楽しいだけで苦労はない。

出来上がるまでの間に農家の苦労が詰まっているのだから、そこを飛ばして最後のきれいな部分だけ見せると、本来の企画意図とは違って、いいとこ取りに終わってしまう。

それは結果(文字通り果実を結ぶこと)ばかりが重視され、過程の評価がないがしろにされがちな社会風潮とも関連しているのではないか、なんていうことも頭にちらつく。
結果は出さなければならないかもしれないが、桃栗三年柿八年である。木を植えたからといって、すぐに果実が取れるわけじゃない。無理に早く果実を取ろうとすると、おいしくない結果に終わってしまう。

思い返してみれば、おれだって子供の頃、さつまいも掘り体験とかやったし、全国各地の他の人だってやっているはずで、そうした動きは何十年も続いている(おれは40年前くらいにやった)が、その間、日本の農業は衰退し続けている。

美しい絵画を美術館で鑑賞しても、真剣に絵を描いた経験がなければ、何年もかけて生み出した画家の苦労は分からない、ということなんじゃないだろうか。

話を戻そう。

畑の来訪者にそういう話をかなり端折ってしてみたところ、その人はきちんと聞き入れてくれ、こちらの意向も尋ねてくれた。収穫体験を信じて疑わない人もいるが、そういう感じではないようだった。

現場を体験して欲しいという点も一致している。問題なのは、何をどのように体験してもらうかだ。いろいろやるべきことがある中、時間と労力、費用をかけてやるのだから、企画者、参加者、現場の三者にとって何かしら意味のあるものにしたい。

途切れがちな町中と農村の接点に、再び光をあてる小さな活動にもなり得ると思っている。うまくいくか分からないが、実現のためあれこれ模索しよう。

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