「汚いもの」も衛生的かも

桃の開花

桃の花が咲いたよ

農業を営む人たちの間で少し前に大きな話題になったのが、食品衛生法の「改正」だ。

一言で言えば、今まで農家単位でできた農産加工品の規制が厳しくなって、前のようにはできないものが出てきたということだ。(他にも多数のポイントがあるけどここでは除外)
より「衛生的」にするための規制を強化したと言えば聞こえがよく、反対する人はまあいないだろうね。

ただ、ここで考えてみたいのは、どこまで「衛生」を目指せばその欲求は満たされるのかということ。究極的には無菌状態になんのかもだけど、閉鎖された空間でない限りそれは維持できないし、腸内細菌を筆頭とする体内の菌類のことを考えると、それは不可能と言ってもいいよね。

閉鎖空間で一生を終えたい人はいないだろうから、ある程度、外の世界の菌とも上手にお付き合いしていかなけれぱならない。そうなると、それに見合った抵抗力や免疫力が必要になる。そうした力は、一見、「汚い」と見なされがちなものと触れることで、磨かれていく。

だから、「きれい」なものしかない空間にいたら、どんどん弱くなっていく。自分の健康や命を守るためにしているつもりの除菌や殺菌が、目指す方向とは逆に向かっているかもしれないということを、そろそろ真剣に考えた方がいいんじゃね?

衛生とは何を意味するのか、改めて辞書を引くと、本来の意味は「生命をまもること」(生を衛る)とある。それが明治初期に英語のhygiologyの訳語に採用されたことで、いま一般に使われている意味に広まったという。

だから、本来の意味で考えるなら、「汚い」と見なされているものにある程度触れることは、衛生と言っても間違いではないってことだ。

農作物を食害する生き物を無差別に大量殺戮することをSDGsと絡めてワンワン🐶吠えたところ、「SDGsの主語は人間だから、人間の持続可能性に反するものは駆除するのはSDGsとしては正しい」という突っ込みをされたことがある。

突っ込み者の言いたいことはわかるが、田畑にいる生き物は、まだその生態がよく分かっていないものが多い。それに、直接的には人間の益にならない生き物でも、生態系には複雑な相互作用で結果的に支え合っている側面があり、人間もその一部であることを考えると、人間の持続可能性に反するものとそうでないものとの線引きなんて、意味があるのだろうか。そもそもそんなこと、できんの??

SDGsと吠えてるだけで、その実態をしっかり考えていかなきゃ、なんも持続なんてしやしないわな。

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