板前さんに引き戻される記憶

カンボジア写真集

板前さんから手渡された写真集の表紙

ゴールデン農ウィーク、もう何日目かどうでもよくなった。農は延々と続く豊かな営み。何日目か数えることに何の意味があるというのだろう。続いていく、そのこと自体に価値があるのだ。

今はやりの言い方をすれば、持続可能とかそういうことになるのだろうが、そんなことを考える必要のなかった、言い換えればそれが当たり前だった時代から、農はずっとここにある。

流行りものが好きな金まみれの輩たちが得意気に
「オーガニックはSDGsだ」
などと叫んでるのを聞く度、シラケた気分になるが、持続可能とは何なのかをおれに教えてくれたのは、皮肉にも金を持っていないカンボジアの村の人たちだった。

いつもうちの野菜を買ってくださるお店に配達に行ったところ、そこの若い板前さんが一冊の写真集を手渡してくれた。板前さんの友人がカンボジアで撮影したものをまとめたものだという。

奥付にあるプロフィールによると、撮影者が生まれたのは、おれが初めてカンボジアの土を踏んだ年。他の人が語るこういう偶然は何度か耳にしたことがあるけど、自分がそれに包まれるのは不思議なものだ。

カンボジア写真集
一枚一枚、めくってみる。おれがウロウロしていた懐かしい村の風景がそこにある。赤土の道、上半身裸でバイクにまたがる男たち、あちこちから寄ってくるチビッ子、照りつける熱帯モンスーンの太陽。
何者かになることに憧れ、何者かになろうとして、さまようことしかできなかったあの頃。

農への道を拓いてくれたカンボジアに、おれは何かを返さなければならない。この写真集に写っている人たちが、技能実習というクソでしかない制度の中で苦しんでいるかもしれない。

でも、体はひとつだけ。やれることは限られている。カンボジアが拓いてくれた農への道を他の人にも繋げたい。

よりい週末有機農業塾の開講まで、あと数日。意味がないと言いながら、数えることから逃れられない。鉄格子のはめられた狭い留置場のなかで、そこから出られる日までの時間を数える心境はどんなものなのか、ふとそんなことを考えてしまったが、もちろん答えは出せない。

子を失った人の涙、家族を残して出稼ぎに来る苦悶。想像を超越した物語が狭い空間に飽和している。

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