自分でやるのは手間がかかるだけ?!
トマトソースを作っている。傷がついたり、色が悪かったりして売れないトマトが原料だ。いつもはおーんちゃんが作ってくれるが、たまには自分でやってみることにした。
へたを取って半分に割り、芯と傷ついたところを取り除いて煮込む。量が多いから、これだけの作業でも結構時間がかかる。ただ、自分で育てたトマトでトマトソースを作るというのは、高い金を払って高級料理を食べるのとは対極にある贅沢な時間だ。
時間と手間はかかるが、それは別に嫌なことではない。トマトがソースに姿を変えていく、その時間が心地いい。
原料はトマトだけだから、食品表示に右往左往する心配はない。
トマトは自分で育てたものなので、種のときから知っているし、育て方も全部、自分の手と目で把握している。だから、トレーサビリティもいらない。
安全安心とは何なのかとか、そういうことも大事だろうけれど、その根底を成すものが蔑(ないがし)ろにされている気がしてならない。
なぜ、安全安心を追求するために、いろんな制度や仕組みをつくらなければならないのか。ひとつの大きな理由は、現場がどんどん離れて、見えなくなり、それにつれて現場に対する興味や関心も薄れていっているからだろう。
そして、局部的でねじれた興味関心が、食品表示やトレーサビリティなどを生む土壌を育てたのだと思う。
さらに、現場との心理的・物理的な距離が開くにつれ、自分でやらない、お金を払って人にやってもらう生き方のほうがスマートで楽、おしゃれ、快適であり、現場で流れる汗と時間に対する評価はどんどん下がってきていることも、たぶん大きく関係している。
ここでもう一度立ち返って考えてみたいのだが、自分でやるのは手間や労力がかかるだけという、負の意味しかないのだろうか。
そういう評価しか下さない人がいるのは間違いないだろうけど、よりい週末有機農業塾をやっていると、そうではない人たちも確かにいることが分かる。
休みの日曜日にわざわざ出てきて、自分の手を汚し、汗をかき、土と戯れている。野菜なんて高いものじゃないから、金を払って買えばいいじゃんと、多数派は考えているのに、少数派の人たちの口から出る言葉は
「ピーマンがたくさん取れる!」
「ミニトマトが甘くて、毎週、これが楽しみ!」
「わー、きゅうりの花がたくさん咲いている!」
なのだ。
きゅうりの花が咲いていたところで、1円にもなりゃしないのに、満開の笑顔である。自分でやるのが苦でしかないなら、この笑顔は出てこない。
つまり、ここにあるのは紛れもなく喜びなのだ。
労力と時間を考えたら、買ったほうが安いとよく言われる。確かに、労力と時間しか考えなかったらその通りだろう。そこに喜びが含まれていないのだし、喜びは金に換算できないのだから。
全体からしたらごく少数派だろうけれど、世の中でまともなのは、多数派から変わり者扱いされる少数派の人たちであることが多い。
ありがたいことに、おれは毎週日曜日に、素晴らしい少数派の人たちに囲まれた時間を過ごしている。
また来週も、汗と土にまみれながら、美しく咲いたきゅうりの花を眺めよう。
自分で育てたトマトでトマトソースを作りながら、ふと、そんなことを考えた。
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