それは何のためにやっているのか?
日曜日は、よりい週末有機農業塾。種まきのための土の調製と、春野菜の種まきなどをやる。
今年度は今回を含めてあと3回となったので、最終日に実践してもらう卒塾課題に向けて、なぜその作業が必要なのか、何のためにやるのか問いながら、なるべく自分たちで進めてもらうよう、突き放していく。
一つ一つ細かく教わりながらやると、理解できてわかったような気になるが、単純そうに見える作業でも、始めから自分で作業手順や必要なもの、なぜそうするのかを考えて実践するのはなかなか難しい。
いつでも、全部、ていねいに教えれば、その場ではみんなできるようになった気持ちになって、楽しい時間になるかもしれない。
ただ、その楽しさとは、どのような性質のものかと考えると、その場だけの享楽的な時間と言い換えられる。
そこには、自分でできるようになって世界が広がる喜びとか、試行錯誤して生み出した達成感とか、さらに進んでみようという意欲を掻き立てられるとか、そういう楽しさはない。
そして何より、享楽を演出しただけでは、畑を使う人を増やすというこの農業塾の目的も達成されはしない。
何のためにやるのかを参加者に問う作業は、この事業を何のためにやっているのかを自分に問うことに等しい。
「農業たのしいよねー」みたいな楽しさを目的としてやるなら、もっと楽だよなと今さらながら思う。
わー、すご~いみたいな要素を散りばめ、ちょっと技術的なものを盛り込み、やった感を演出すれば、それなりに形になるからだ。
でも、それはよさげな農作業をいいとこ取りして切り貼りした時間に過ぎず、農業ではない。より深いところを目指したいという気持ちも沸き立ちにくいから、世界の広がりも期待できない。
享楽的な楽しさは飽きやすいので、続かず、次の新しい享楽を求めて去っていくだろう。そこに残るのは、今までと何も変わらない風景とわびしさ、徒労感…。
だから、敢えて面倒な問いを続けている。
その問いの先が薄っすらとでも見えれば、心の濃霧がさーっと晴れ、今までとは違うものが視界に入るようになるからだ。
ただ、そんなにウマい話ばかりではないから、全員には伝わらないことは分かっている。
たった一人でもいい。毎回、ほぼ一年に渡る時間をかけて、真に視界が開ける人が生まれれば、長い時間をかけて続ける意味があるだろう。
それは何のためにやっているのか?
なぜ必要なのか?
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