同じものを見ても見えるものが違う


車窓から撮っているのでブレブレだし、追いついていない(つまり写っていない😮‍💨)が、棚田のように畦が曲線の田がいくつか続いている光景と出会った。畦が曲線と言っても、何を言っているのか伝わらない時代に、畦が曲がっている田を見つけて車内で一人、飲んだくれながらいろいろ考えている。

曲がった畦は効率追求の対極にある。稲作としては儲からない絵だ。それを維持管理する労力がどれほどのものなのかは、実際にやっている人にしかわからない。もちろん、おれにもわからない。

その畦の上で、親子らしき3人が楽しそうに何かをしている。

周りの風景は、山と田、民家、道、鉄道路線、わずかな商店。世間が「何もない」と評するような景色の中で、楽しそうにしている。

世間が何もないと言っているだけで、この親子の中には色々なものが見えているのだろう。本当に何もなかったら、そこでは生きていけないから、楽しいもへったくれもない。
何もないと言う視点は、直接的にすぐ現金を産み出すものがない、そう言い換えたい。

またオマエはそんなことを言ってウザい。
金がなきゃ生きていけねえだろう。

そういう声があちこちから聞こえてきそうだ😴

こんなことを書いていたら、行きに川で釣りをしていた人が、帰りも同じ川で、同じ場所で、釣りをしているのが見えた。売るつもりはないだろうが、川で何時間も釣りをしても、いくらにもならないだろう。

では、世間が何もないと評するところで、経済的に非効率な釣りをし続けるのはなぜなのか。

趣味だからだろ!

と突っ込む人がいるかもしれないが、それで終わりにせず、そこから先を考える人と、あれこれ話をしたいと思っている。

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