農業教室が生む新たな価値


今朝も朝ごはんの焼き芋を焼きながら、ああだこうだ考えている。

よりい週末有機農業塾の昨年度の受講生の方が、あるきっかけで、以下のような受講の感想を寄せてくれた。

(ここから)
農業塾で学んだことは山のようにありますが、何と言ってもただの収穫体験では知り得なかった世界を広げていただいたことです。
普段知り得ない、見えない世界。その世界を知ったことで、自分が生かされていることにはっきりと気づき、たくさんのことやものそして人への感謝の念が深まり、人生もより豊かにカラフルになったように思います。

野菜ができるまでの工程とその野菜が育まれる環境、取り巻くあらゆるものとその畑がどう外の世界と繋がってるいるのかまでを見せていただき、目に見える虫、見えない微生物、見えない水の流れの事や風の流れ、自然の摂理、偉大さ、奥深さ…寄り添って共に生きる事の大切さ。
そんな事を知っていくと、形や大きさ、少々の虫食いなど全く問題ではなく、自然の恵みを余す事なく、大切にいただける事への感謝と命の喜びを得られるように思います。それが、今1番の幸せだと思えています。
(ここまで)

恐縮してしまうほどのありがたい感想だが、ここで言いたいのは、農がまだ見えていない大きな可能性を秘めているように読めるということだ。

何度か書いたことがあるが、作物を育てたことがなく、買って賄い続けてきた人たちが、自分で育てて食べ始めるということは、今までと違う生き方、言うなれば見えていなかったもう一方の世界に立って生き始めるということだ。

それがこれからの時代の新しい農民を生むことにつながると思っているため、栽培方法だけでなく、感想に挙げられているような背景を伝えたくてやってきたが、改めてそれが参加者の方の言葉で表現されたものを読んで、見えないもの、表層に出てこないものの大切さや重要さは、いろいろな物事に共通しているなと感じるようになった。

本当はそこが一番重要なのに、見えないから(見ようとしないから)見当違いのことをやってしまったり、本来進みたいほうとは逆に歩んでしまったりする。農という枠の外でも、同じことが起きているからだ。

生かされているという謙虚さも大切だろう。ついつい相手に対して尊大に振る舞ってしまったりするのも、見える部分だけに囚われてしまうからではないか。その人がどう考えた上での言動なのか、その考えは何に培われたものなのか(きっと生い立ちと深い関係がある)、そんなことに目を向けられれば、みんなもっと穏やかに生きていけるはず、なんてことも頭をよぎる。

これは、元技能実習生たちが各地で起こす犯罪にも通じている。自分の不利益につながるからと言って、問題の根本を放置し続け、見えている犯罪だけ摘発し続けても、形を変えた新たな犯罪を産むだけなのだ。

「根が残っていれば、刈っても草は生えてくる。私たちの本当の仕事は、根を断つことなんです」
鉄格子の中で聞いたある関係者の言葉が心に響く。

農業塾に話を戻そう。

野菜の育て方を学ぶことで得るものが野菜だけではなかった、という広がりがこの場に集う人たちと共有できたとき、地域の新しい幕開けがきっと始まる。

ただし、それは桃栗三年柿八年なのだ。おいしい実が食べたかったら、毎日、コツコツと世話をしてやらなければならない。高価な肥料をたっぷり与えれば、すぐに質のいい実が採れるわけじゃない。逆に果実の味は落ち、病気や虫の害に悩まされることにもつながる。

言うは易し行うは難し。そういうことが出来ていない自分に対する戒めを込めて書いてみた。

自分の中ではメガソーラー問題に端を発し、農業教室という形に整えてもらったよりい週末有機農業塾という場が、受講生に恵まれたおかげで、従来の農業教室とは違う価値を生む可能性を発揮し始めている。

そうした場が、全国的には無名なこの小さな町で産声を上げたことは、何よりの喜びだ。

小さな地域の農が秘めた可能性を信じて、今日も畑に向かおう。猛烈に寒いけど

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